存続には親子喧嘩も必要?過去の偉人「真田信幸」から学ぶ処世術


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古今東西、親子の間のトラブルはよく聞く話です。

現代でも老舗の家具メーカーで父娘が社長の座を巡って争ったり、古くは武田信玄が父である武田信虎を甲斐から追い出して家を継いだ、などといった話があります。

親子の間に愛情があっても決裂しなければならない状況というものが存在するということです。
この話は到底理解できないという方もいれば、身に覚えがある方もいるのかもしれません。

親子が争うのは「情愛」ではなく「状況」です。

いえ、むしろ情愛があるからこそ争わねばならないこともあり得ます。

今回はそんな親子の決裂をテーマに、時代劇でも人気のある人物で、戦国時代に生きた偉人「真田信幸」について触れていきます。

■国衆から小大名への成長

真田信幸は武田信玄の配下であった真田昌幸の嫡男です。
弟にはあの有名な真田幸村(信繁)がいます。

真田家は武田家滅亡後、大名の庇護の下で生き残るために主や同盟者を転々と変えます。

現代で例えると、小さな会社の部長クラスが、社員をまとめて、改めて会社を作り、大企業の傘下に入ってさらに大きくなっていくようなものです。

武田⇒織田⇒北条⇒徳川⇒上杉⇒豊臣と、実に器用に主を変え、敵を変え、自分の領土を守ります。

徳川と北条とは一度敵対関係となり、1585年に第一次上田合戦という戦争を起こしています。
兵の数の少ない上田城の真田は策略を用いて徳川の兵をおびき寄せて攻撃し、戸石城にいた信幸も徳川を追撃して大きな損害を与えています。

しかしそこは小大名、やがて豊臣秀吉の勢力に飲み込まれ、徳川と和睦、徳川の配下に組み込まれてしまいます。

その後、第一次上田合戦で武功をあげた信幸を徳川家康はたいへん気に入り、徳川四天王の本多忠勝の娘を養女とし、信幸に娶らせたのです。

 

■父子の決裂

やがて天下を制した秀吉が死に、1600年には関ケ原の戦いが起こります。(第二次上田合戦も行われます)

真田家は徳川家の与力(家臣)ですから、すぐに徳川方として参戦するわけですが、7月21日、犬伏という場所で父子水入らずの相談が開かれます。

家臣がのぞきに来たら下駄を叩きつけてその前歯を折ったというほどの内密な打ち合わせでした。

徳川家に敵対する石田三成からの誘いの手紙が父に届いたのです。

もし三成方に付いて勝利すれば、莫大な褒章をもらえることになっています。

小大名から大大名になれる好機だったのです。

信幸は家康に忠義を尽くして父と決裂します。

逆に父の昌幸は真田家のさらなる発展に賭けたのです。
それはハイリスクハイリターンの危険な賭けでした。

父と子が決裂して戦うことは実は戦国の世では常識です。

一方だけに付いてしまえば負けたら家は滅びるからです。
家名を絶やさぬように父と子が泣く泣く別れ、敵となる。
この時の真田家の決断も同じです。

これを「犬伏の別れ」と呼びます。

父の昌幸は上田城への帰り道、信幸のいない沼田城をさっさと落としてしまおうとしますが、信幸の妻が絶対に城に入れなかったといわれています。
武士の妻の鑑として昌幸は褒め称えたそうです。

 

■信幸が大名に

関ヶ原の戦いは徳川方の勝利で終わりました。

信幸はその功績を認められて沼田と上田のあわせて9万5千石の大名となります。

父の昌幸と弟の信繁は死罪になるとところを信幸の必死の嘆願によって、高野山へ配流となりました。
父はそこで病死。
弟は大阪の陣で見事に花を咲かせて散ります。

やがて信幸は転封・加増で松代藩(沼田付き)の13万石の大大名となるのです。

 

■最後に

厳しい戦国の世を親子で協力して乗り越えながらも、最大の危機を親子決裂で回避した点は勉強になります。
情以上に大切にしなければならないものが親子にはあったのです。
そのようなものを共有できた真田親子が羨ましくも思えてきます。

そして真田家は江戸時代もずっと存続し続けるのです。


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