土方歳三といえば、幕末を戦い続けた最強軍団「新撰組」の中で「鬼の副長」と恐れられた人物です。
しかも恐れられた対象が外の尊王攘夷のメンバー以上に、新撰組内部の隊士たちから恐れられていました。
日本近郊の独裁国家も内部で粛清の嵐ですが、まったく同じような形で新撰組という組織を強くしたのが土方です。
局中法度を徹底的に履行した土方歳三の組織作りについて触れていきます。
■武士以上の武士
新撰組が現代でも人気を博しているのは、彼らが「武士以上に誠の武士であろう」としたことです。従って武士らしからぬ真似をすると士道不覚後となって切腹、斬首となります。私闘の末、背中を斬られたら武門の恥ということで切腹だったくらいです。
これは、局長である近藤勇も副長である土方歳三も百姓として生まれ、武士に心底憧れて育ったという背景があります。
武士に生まれていないコンプレックスが、武士以上の武士を目指す意欲につながったのでしょう。
この感覚は私にもわかります。私は進学塾講師をしていました。
国立大学の教育学部を卒業していますが、学校の教師にはなっていません。
なろうともしなかったのですが、同僚には学校の先生になれずに塾講師になった者もおります。
塾講師の多くが、知らず知らずのうちに学校の先生にコンプレックスを抱き、学校の先生以上の教育者になろうとしている集団です。
こちらは「教育者以上の教育者を目指す」といったところでしょうか。
だからこそ妥協が許されなかったのだと思われます。
理想の武士像を追って狂気とも思える組織作りを進めていきます。
■粛清
新撰組の隊士は戦死した者よりも内部で粛清された者の方が多いともいわれています。
もともと局長だった水戸藩の芹沢鴨も近藤や土方に暗殺されています。
他にも名だたるところでいけば、参謀の伊東甲子太郎。裏切ったということで暗殺され、その遺骸を敵を待ち伏せするのに利用されています。
そこで八番隊組長だった藤堂平助も殺されています。
七番隊組長の谷三十郎、五番隊組長の武田観柳斎、総長の山南敬助など幹部に対しても容赦せず斬首や切腹を断行しています。
組織は完全なるトップダウン式の指示系統で、内側の膿を吐き出すための内偵役もありました。
近藤は神輿的な存在であり、組織作りから実際の運営は土方が取り仕切っていたといいます。
現代で考えると、社長ではなく副社長や専務などが率先して指揮を執っている感じでしょうか。
しかも絶対に妥協を許さず、鬼となって組織の方向性をひとつにするのです。
よほどの精神的な強さと実行力、人を観察する力がないとできることではありません。
そして1864年の池田屋事件以降、新撰組の名は天下に轟くことになります。
■近藤の死後
佐幕派の新撰組はどんどん追い詰められていきます。
勤王派は近代兵器を駆使してくるので、白兵戦にでもならない限りなかなか威力を発揮できないのです。
そうこうしているうちに1868年には近藤が捕縛されて斬首されます。
ここから先は土方が率いる新撰組と、斎藤一が率いる新撰組に分かれるのですが、どちらも新政府軍に敗北し、土方は銃弾を浴びて即死。
斎藤は会津で捕虜となり、その後は新政府で働くこととなります。
土方が根本的に冷酷な男ではなかったことは、この近藤死後の周囲との係わり方でわかります。
鬼の副長としての姿は影を潜めます。
1868年以降は蝦夷の五稜郭まできて新政府軍と戦い、さすがは新撰組の土方という武功を挙げるのですが、箱館で一緒にいた者たちは皆、口を揃えて「箱館での土方さんは母親のように皆に慕われていた」というのです。
その組織の中で、自分が最も効果的に働けるポジション・役割というものを土方は見抜けていたのかもしれません。
組織を強くするうえで自分はどうあるべきか、土方の生涯を見ていると勉強になる点がたくさんあります。