荻野真先生の不屈の名作で、アニメ化や実写映画化されています。
主役は運命の子・明。記憶を封印され法名の孔雀を与えられて退魔行を続けてく中で、やがて運命と対峙するという物語です。
密教や曼荼羅ブームの先駆け的な存在でもあります。
この孔雀王は宗教チックな側面とともに、現代の人間に問題を投げかけるシーンも印象的です。
追儺の鬼
記念すべき1巻の第1話です。
追儺とは世のあらゆる災いや不満を、偽装鬼に対し印地(石を投げつける)を行う事ではらう平安朝の儀式です。
その偽装鬼の多くは、力の弱い者達の中から選ばれ、当時、市民は差別・貧困あらゆるものへの憎悪を込めて彼ら偽装鬼に石を投げつけ、災厄をはらうと共につかの間の憂さをはらしたそうです。
形式を変えただけで、現代の人間も変わらないと、物語のなかでは視聴率を得るために犠牲になった女性が登場してきます。
そして自分に石を投げつけた人間たちを呪うのです。
退魔行に成功した孔雀は、最後にこう言い残します。
「人を呪わば穴ふたつと言う。怨念は呪われた者のみか、呪う者すら同時に滅ぼす。はたしてどちらがあわれか・・・」
世界でテロが相次ぐ中、この言葉はとても重く感じました。
呪う者、呪われた者、そのどちらもが滅びていく定めなのです。
ではどうすれば両者は救われるのでしょうか。
孔雀王の物語は、そんな両者の戦いの話に発展していきます。
人間の存続のために犠牲になるもの
光と闇の攻防の中で、虚空蔵菩薩を守護神にもつミルベグの言葉が人間の問題の核心を突きます。
14巻からミルベグの話をふたつご紹介いたします。
「永遠に生き続けたい・・・これは命あるもののすべてが持つ本能だ・・・だがその生存本能のために一つの命がどれほど多くの命を犠牲にしているか。
たとえばひとりの人間を一年間養うには三百匹の魚が必要だ。その三百匹の魚を養うにはさらに九万匹のカエルが必要だ・・・九万匹のカエルは二千七百万のバッタを・・・そしてそのバッタは千トン以上の草を食いつくす」
人類が生き残ることが本当に正義なのか不安を感じさせる話でもあります。
人間は自分たちの利己のために多くの動物を絶滅させ、また減少させてきました。
人間の命は尊い。それは、あらゆるものを犠牲にしても成り立つのでしょうか。
そんな葛藤を抱えながら人類はここまできました。
なぜ世界は戦争を続けるのか
「同じことが人間社会にも言える。地球上の人間が皆、アメリカ人並みの生活をしようとすれば、現在ある全エネルギーを使いつくしても、世界人口のわずか18%しか生きられない。
そして残る人々は飢えと寒さで全員死亡する」
学校では決して習わない知識と情報です。
なぜ地球から戦争やテロがなくならないのか、その答えのひとつがここにあるような気がします。
食うものと食われるものの関係が人間社会にも確かに存在するのです。
その理不尽さに納得がいかない者もいるでしょう。
どちらが正義で、どちらが悪なのか割り切れない話になってきます。
どちらにせよ人類が滅亡してしまえばビジネスもなにもありません。
人類が健全に存続してこそのビジネスです。
もちろん戦争から利益を生み出すビジネスも存在はしますが、現代ではもはやそれどころではない事態に発展していきそうで不安になります。
最後に
孔雀王という漫画は人間や人類の持つ光と闇、善と悪を伝説や宗教と絡めて巧みに表現しています。
最終話では光と闇が融合され、もとの世界に戻るのですが、はたして現実社会はどうなるのでしょうか。
互いの存在を認め合い、共存や融和というものが今以上に進むことを願ってやみません。
ぜひ一度、「孔雀王」を読まれることをお勧めいたします。