蒲生氏郷(がもう うじさと)については知らない方の方が多いと思います。
何かを為したというわけではありませんし、大河ドラマなどにもなかなか登場しません。
しかも下手に登場させると、主人公のいいところを全部持って行ってしまう可能性もあります。
それだけの手柄と成果をあげているからです。
氏郷は後年、キリスト教に改宗します。そして友に見届けられて静かに息を引き取るのです。
氏郷は納得して目を閉じたそうです。
無念な気持ちはなかったに違いありません。
今回はそんな隠れたスーパーエリートである蒲生氏郷について触れていきます。
■織田信長に認められる人物
蒲生氏郷の父は信長の敵でした。降伏したときに人質に出されたのが氏郷です。
12歳の氏郷を一目見て気に入った信長は自らの次女を娶らせると言い出します。
そして烏帽子親を信長自らが務めて、氏郷は元服するのです。
そこからの氏郷の活躍ぶりは、さすがは信長の目に留まった男として怒涛の如きものです。
あらゆる戦に参戦し、武功を挙げています。実際に信長の次女を娶り、義理の息子となるのです。
ちなみに氏郷はこの姫に遠慮したのか、側室を持ちませんでした。
二子を儲けますが、どちらも早世し、蒲生家は断絶されます。
■豊臣秀吉に恐れられる
信長亡き後の天下は秀吉が治めました。氏郷も秀吉の配下として活躍します。
名だたる戦に出て武功を挙げた氏郷は、高山右近の強引な勧誘でキリスト教に改宗します。
信長もキリスト教を熱心に布教していましたから、その影響もあったのでしょう。
嫌がる氏郷を連れて教会へ行き、神父の説教を聞いて感動し、改宗したといいます。
1885年のことです。洗礼名はレオンです。
秀吉が北条を成敗した後、奥州の伊達政宗の抑えとして陸奥会津に転封・加増となります。
なんと91万石です。
秀吉が配下にこんな質問をしたことがあります。
百万の兵を率いれば誰が一番強いのかと。
そのほとんどが徳川家康か前田利家の名前を出しましたが、秀吉は「それは氏郷だ」と答えたそうです。
秀吉は氏郷を恐れて遠くへ追いやったとも噂されています。
■配下とのかかわり方
リーダーに可愛がられ、また恐れられた氏郷自身はどのように配下に係わったのでしょうか。
まずは一番危険な戦場では、自らの背中で味方を鼓舞したといわれています。
つまり先頭を大将が駆けたのです。
合議の場は自由な空間にしました。
「恨まず、憎まず」が合言葉です。
誰もが身分に関係なく自由に発言する機会にしたといいます。
また陸奥の91万石を手にした時には、配下たちに欲しいだけの領地を云えと命じました。
計算すると91万石を超えていたそうです。
それを聞いて氏郷は何とかするよう苦心したといいます。
さらにそれを聞いて多くの配下が加増を取り消しました。
それでも残ったのは9万石に過ぎなかったといわれています。
このように氏郷は自ら率先して動き、また多くの意見を取り入れて国の政治を治めた英雄です。
39歳の若さで病死しますが、もし仮に氏郷が生きていれば関ケ原の戦いはまったく違った展開になっていたのかもしれません。
大阪の陣の結果も変わっていたかもしれません。
それほどの力を氏郷は持っていたのです。
■まとめ
陸奥の会津は蒲生氏郷が城下町を活性化させました。
商業を奨励し、楽市楽座を積極的に行い、商人たちを招いています。
その後、江戸時代の会津藩発展の礎を築いたのです。
軍事面も政治面も人との係わりかたも優れていた氏郷は天下の器です。
現代の会社員や役員も氏郷から学ぶべきことはたくさんあるのかもしれません。
さらにいうとあの冷酷非情な信長の期待を受けて、それにしっかりと応え続けた精神力に感服します。
プレッシャーのコントロールの上手な人だったのかもしれません。