戦国時代の隠れた英雄「石川数正」から学ぶ「人間力」や「社交力」について


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将軍となる徳川家康には、最も信頼が厚く功績のある四人の武将がいます。

この四人を特別に徳川家四天王と呼び、後世まで語り継がれるわけですが、本来であれば絶対にそこに名を連ねるであろう石川数正の名前がありません。

家康の最も近くにいて、最も信頼の厚かった数正がなぜ四天王に選ばれていないのか。

今回はその石川数正という人物について触れていきたいと思います。

■人質時代からの友

徳川家康よりも10歳年かさの石川数正は、家康が人質として今川家で暮らしていた幼少期から一緒にいます。家康が独立した後も一向一揆がおき、配下の武士たちも一揆に加わる中で、数正は己の信仰心を変えてまで家康のために戦いました。

家康が参加した戦には常に参加して手柄をたて、武功を挙げています。

忠義、実力ともに群を抜く働きの数正はやがて徳川家の領土の西半分の大将となるのです。

そして徳川家(当時は松平家)の聖地ともいえる岡崎城の城代も務めるようになります。

まさに家康配下のNO1・2の活躍ぶりです。

当然のように家康からの信頼は絶大なものがありました。

 

■秀吉との交渉役

家康の領土である三河の武士は、質素倹約の暮らしの中で生活し、反骨精神が旺盛で、頑固。

己の信じる道を絶対に曲げません。
この精神がやがて江戸時代の武士、並びに大和魂となって日本全土に広がっていきます。

悪くいうと頭が固く、臨機応変さに欠ける面がありました。

しかし数正は幼少期より三河ではなく、家康同様人質の身で駿河の今川家にいました。
三河とは対称的に雅なところです。
尾張もそういう点では駿河に似ています。

外交的で商売が上手く、新しいものを積極的に取り入れます。

駿河・尾張に挟まれた三河はどちらかというと閉鎖的でした。

その三河において数正のような柔軟な考え方ができる人材は貴重でした。

そして同盟国であった織田家が本能寺の変によって分裂し、その中から豊臣秀吉が台頭してきます。
その外交交渉の役に任ぜられたのが数正でした。

「人たらし」の秀吉相手では忠義の士である必要がありましたし、インテリさも重要だったのでしょう。
数正はうってつけだったといえます。

 

■小牧・長久手の戦い

天下統一を目指す秀吉にとって、家康の存在は邪魔でした。

一度だけ互いに兵をぶつけあったことがあります。

これが1584年の小牧・長久手の戦いです。
後にも先にも直接対決はこの1度きり。

ここで秀吉は「中入り」という大胆な作戦にでて、結果そのために敗北します。

先鋒が敗北しただけですので、それで即、秀吉の勢力が弱体化するわけでもありませんでした。
やがて表向きは和睦、引き分けの形で終了します。

徳川家は歴戦の勇であり、織田家の唯一の同盟国でしたから、秀吉としては潰すよりも臣下に降ってもらうことを望んだのです。

その折衝をしたのが数正です。

上洛し膝を屈するとなると人質も出さねばなりません。

三河武士は当然ながら納得がいきません。
戦いに実際に勝っているという自負もありました。

徳川家は主戦派と融和派に分かれます。天下の形勢が決まっている以上、無益な戦いをしたくない数正は融和派でした。周囲にはそうとう恨まれていたと思います。

 

■トップハンティング

1585年、突如、数正が徳川家を離反し、秀吉に走ります。

融和派の数正は、それ以前に三河武士に裏切者扱いや秀吉と密かに通じていると噂されていたといいます。実際の理由は今も謎です。実力はあって三河武士に必要不可欠な信頼を失ったのです。

徳川家はすべての情報が筒抜けになってしまったので、戦い方から変更し武田流にします。

数正の与えられた領地は8万石。やがて信濃松本10万石となります。

徳川家を震撼とさせる寝返りとなりました。

 

■まとめ

しかしながら関ケ原の戦の折りには数正の嫡子・康長は東軍(家康側)についています。

一見、トップハンティングにように見えますが、実は逆スパイだったのかもしれません。

または、古い社会風土に嫌気がさして、新しい時代の中で、自分の実力ひとつでどこまで通じるか試してみたい、というベンチャー企業の先駆け的存在だったのかもしれません。

どちらにせよ、いかに絶大な活躍しても、風土にあうか、人間関係が上手く構築できるのか、そちらもまた重要であることを石川数正から学びました。


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