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まさに「縁の下の力持ち」そのもの!武田信繁の兄への思いについて

山梨県北口に旅行すると武田信玄が居城のように愛用していた場所に辿り着きます。

現在の武田神社です。信玄は城を持たなかったといわれています。
有名な信玄の言葉に「人は城、人は石垣、人は堀」というものがあります。

人心が離れてしまっては、どんな堅城があっても意味を為さないということです。
家臣が城であり、守りの要だというのが信玄の考えでした。

その家臣の中心人物が「武田信繁」です。
名前を見ておや?っと思った方も多いと思います。

有名な真田信繁(幸村)と同名です。
父の真田昌幸は武田信繁を慕ってその名を次男につけたといわれています。

今回は兄をしのぐ器量がありながら武田家をまとめるのに奔走した武田信繁についてふれていきます。

■父の寵愛

兄の信玄(晴信)と弟の信繁は年が4つほど離れています。
同腹から生まれた兄弟ですが、父の武田信虎は信繁の器量を見て、武田家を継がそうとします。

それを知った信玄は策略を用いて父を駿河に追放して武田家を継ぐのです。

兄を尊敬していた信繁は私怨など一切持たずに、その後の武田家繁栄に尽くします。

兄弟で殺し合うことがごく普通であった戦国の世で、実に潔い姿勢です。

信玄は甲斐だけでなく信濃にも領地拡大を広げていました。
戦略は一門の子を養子に出し、その家を乗っ取るというものです。

信玄の次男の信親も海野家に養子に出され、海野家を継いでいますし、庶子である勝頼も諏訪家に養子に入り家を継いでいます。(その後、武田家を継ぎます)

信繁は長男を養子に出しています。
望月家です。
正妻の子でなかったことも理由のひとつのようです。
母方が望月家でした。

信繁は己の運命とは逆に次子である信豊を生まれながらに嫡子として育てることになるのです。

 

■家訓

信繁は信豊に「99箇条家訓」を残しています。

江戸時代になり、誠の武士は誰かという論議があり、ここで武田信繁の名が大きく広まりました。

己の利益を顧みず、兄であり、家のために尽力したからです。
まさに忠義のひとでした。
後にこの99箇条家訓は江戸武士の心得のひとつに定まったようです。

それだけ徳川家は武田家をリスペクトしていたともいえます。

 

■川中島の戦いでの討ち死に

川中島では武田軍と上杉謙信率いる上杉軍が何度も衝突していますが、一般的に「川中島の戦い」といえば、1561年の第4次川中島の戦いをさします。

双方合わせて七千人の死者が出たというほどの大きな戰でした。

武田軍は妻女山に陣取る上杉軍に対して「啄木鳥戦法」をとりますが、見事に上杉に看破されて、前半は上杉の大攻勢で戦が進むのです。

武田信繁はこのときに討ち死にしています。

上杉の「車懸かりの陣」という波状攻撃に敗れたのです。

後半は武田軍が盛り返し、結局は引き分けに終わります。

戦後、武田信玄はその亡骸に泣きながら抱きついたといわれています。
敵方の上杉謙信すらその死を惜しんだといいます。

家臣たちからは「惜しみても尚惜しむべし」と格別に評されています。
武田家にとっていなくては困る存在だったのです。

36歳の若さで信繁はこの世を去ることになります。

仮に信繁が生きていれば、信玄とその嫡男である義信の確執は起こらなかっただろうといわれています。

信繁が生きていれば武田家が織田家の代わりに天下を平定していたかもしれません。

 

■最後に

人や組織をまとめるときは地味な役回りをする人間も必要です。

信玄以上の器量よしと評されながらも、己が野心を抑えて、武田家繁栄、兄の手伝いに全身全霊を尽くした武田信繁という人物はやはり戦国時代の英雄のひとりです。

武田家のここまでの勢力拡大の柱石を担っていたのは間違いありません。

「人は城、人は石垣、人は堀」まさに「縁の下の力持ち」そのものだったのではないでしょうか。