I live freely

大河ドラマ「真田丸」で堺雅人さん演じる”最後の名将”真田信繁(幸村)とはどんな人物だったのか

2016年を代表する大河ドラマといえば「真田丸」。

豪華キャストが出演する大河ドラマで、以前まで大河ドラマに興味が無かった方でも、このドラマをきっかけに大好きになったという方が多くいるというほど今を代表する存在です。

 

このドラマで注目すべき人物は、やはり真田信繁(幸村)演じる「堺雅人」さんではないでしょうか。

堺雅人さんは、以前にも大河出演の経験があり、ご存知の方も多いと思いますが2003年には映画「壬生義士伝」で、新撰組一番隊組長である沖田総司を演じ、同じ新撰組のものでは2004年に放送された「新撰組!」では新撰組の副長で、後に総長を務める山南敬助(やまなみ けいすけ)を演じています。

 

今回の大河ドラマでは、戦国時代最後の名将とも名高い真田信繁(幸村)を演じ、ファンから注目を浴びています。

「最後の名将」と呼ばれる、堺雅人さん演じる真田信繁(幸村)とはどのような人物だったのでしょうか。

真田信繁から学ぶ逆境からの打開

真田信繁、通称は真田幸村です。

大阪夏の陣では、六文銭を旗印に徳川家康本陣に攻め込み、その猛攻の前に二度も徳川家康は自刃を覚悟したといわれています。

 

この働きで、「真田の兵は日本一」と敗者であるにも関わらず称賛されるようになりました。

今回はこの真田信繁についてお伝えしていきます。

 

 

人質時代の青年期

真田信繁が本格的に歴史の表舞台に登場するのは、1600年の関ケ原の戦いと1614年からの大阪冬・夏の陣です。

それまでは小さな勢力である真田家が、相手大名の保護を受けるべく、真田信繁が人質に出されている時期が長く続きます。

 

1582年に主家である武田家が滅亡してからは織田信長配下の滝川一益へ人質に出され、本能寺の変が起こった後は、今度は木曽義昌の人質になります。

解放された後は上杉景勝のもとへ人質に向かい。豊臣秀吉の勢力下に入った後は大阪へ人質に出されます。

 

こうして真田信繁は、「武田家」「織田家」「上杉家」「豊臣家」という強国を渡り歩き、革新的な時代の流れを見て、柔軟な思考を身につけていくのです。

 

 

父親である真田昌幸の影響

「表裏比興の者」と恐れられた智謀の将、真田昌幸は真田信繁の父親です。

真田昌幸は信濃の近隣の国衆をまとめ、大勢力である北条家、徳川家、上杉家の間にあって服従・同盟・交戦を上手く使い分けて力をつけていきます。

 

真田信繁は父親に付き従い、その戦略・戦術を学んでいくのです。

この親子が活躍した戦いに「上田合戦」があります。少ない数の兵で多勢を破る歴史に残る戦いです。

 

1585年の第一次上田合戦では、上田城に攻め込む徳川家の兵を巧みに城下におびき寄せて奇襲、伏兵でさらにダメージを負わせ、水攻めで大打撃を与えて快勝しています。

徳川家康の軍勢が負けることはあまりなかったので、印象に強く残ることになります。

 

このとき真田信繁は上杉家に人質に出ていましたが、上杉の援軍を率いて合戦の場に登場しています。

1600年の第二次上田合戦もまた徳川家との戦いでした。世にいう関ヶ原の戦いです。

 

西軍側についた真田家は三万五千の大軍を率いた徳川家康の主力・徳川秀忠の兵を上田城にくぎ付けにしました。お陰で徳川家の主力は関ヶ原の戦いに間に合わなかったのです。

大きな活躍をしましたが、西軍は敗北、真田親子は紀伊国九度山に配流されます。

 

局地戦で寡兵でありながら勝ちを収める方法を、実戦の中で父親から学んだ真田信繁は続く大阪の陣でその学習した内容をアウトプットしていきます。

 

 

大阪の陣での活躍

1614年、九度山を脱出した真田信繁は大阪城に入城し、城の急所である三の丸の南に「真田丸」と呼ばれる出城を築きます。

この突出した出城が、効果的に働き、徳川軍の前田利常の兵を撃退しました。五千の兵で倍以上の一万二千の兵を追い返すのですから見事な働きぶりです。まさに亡き父親のお株を奪うような戦い方でした。

 

この後で和議が結ばれて、冬の陣は引き分けとなります。

翌1615年、大阪夏の陣では果敢に討って出て、道明寺の戦いで伊達政宗の軍勢を撃退します。退却する際は殿として再度徳川勢を撃退しています。

 

この際に真田信繁は、「関東勢百万と候え、男はひとりもなく候」と嘲笑したとされています。

このように大阪の陣では「前田家」「伊達家」という超有名どころ相手に勝利を収めているのです。さすがは真田信繁です。

 

しかし最終的に豊臣方は敗北します。

真田信繁は最後の突撃を試み、真田の赤備えの兵と共に徳川家康の本陣を目指すのです。

 

 

最後に

「ピンチはチャンス」という言葉がありますが、まさに真田信繁の働きぶりを示しています。

寡兵で勝ちを収めることで諸大名からは注目され外交交渉はうまく運び、また、真田の名は後世まで語り継がれることになりました。

 

ただし、そのためには過酷な学びの場が大切であり、それを実践する勇気もまた必要だということを真田信繁は教えてくれます。