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2017年大河ドラマ「おんな城主 直虎」|主演の柴崎コウ演じる「井伊直虎」とはどんな人物か

2017年の大河ドラマは「おんな城主 直虎」が決定しました。

2016年の大河ドラマである「真田丸」が大人気だけに、「おんな城主 直虎」も注目している方も多いのではないでしょうか。

 

「おんな城主 直虎」で主演の「井伊直虎」を演じるのが、女優の柴崎コウさんです。

直虎という名前から男性を連想させるかと思いますが、ドラマの題名にもあるように、実は直虎という人物は実在した女性なんですね。

大河ドラマ初主演の柴崎コウさんが、戦国時代を強かに生きた直虎をどう演じるのかが見ものです。

 

史実では直虎は、本能寺の変があった年である1582年に亡くなっており、知名度も高くないのでご存知の方も少ないと思います。

恐らく、ドラマ特有のフィクションも組み込んで面白いストーリーが描かれていくのであろうと思われます。

こういった、普段あまりスポットが当たらない人物が主人公として描かれるのも面白いところだと思います。

 

そこで、下記では井伊直虎とはどういう人物だったのかを書いていきます。

江戸幕府の重臣、譜代大名の筆頭、井伊氏

井伊氏といえば、井伊直政の「井伊の赤備え」が有名ですが、その誕生には数々の苦難がありました。

遠江の井伊谷の国衆に過ぎなかった井伊氏が後世に格別に輝かしい名を遺した背景には、「女地頭」と呼ばれた井伊直虎の活躍が欠かせません。

そしてその跡を継いだ井伊直政が徳川家康の下、戦国時代において武功を重ねて信頼を得、やがて譜代大名筆頭として彦根藩初代藩主となるのです。

 

井伊直虎の婚約者の悲劇

井伊直虎は遠江井伊谷の領主である井伊氏の本家に生まれています。

当主であった井伊直盛のひとり娘でした。

 

男子に恵まれなかった井伊直盛はすぐに分家の井伊直満の息子と縁組させます。

その息子の名が井伊亀之丞。

井伊直虎の婚約者です。

 

謀反や裏切りなどが横行する戦国時代にあって、井伊直満は主家である今川氏から謀反の疑いをかけられます。

隣国の武田氏との内通の疑いでした。

 

これによって井伊直満は自害に追い込まれます。

幼い井伊亀之丞は信濃に落ち延びます。

西暦1544年のことでした。

 

井伊亀之丞の復帰

井伊亀之丞は逃亡し、許嫁の井伊直虎は10歳で龍潭寺に入り出家します。

出家したときの名は「次郎法師」。

これは井伊氏の惣領を示す名でした。

 

月日が流れて十年の時が経ち、西暦1555年に成人した井伊亀之丞が井伊谷に復帰します。

元服し、井伊直親と名乗っていました。

 

しかし、信濃に滞在していた期間に正妻として奥山親朝の娘を迎えており、井伊直虎とは結ばれませんでした。

西暦1560年に桶狭間の戦いで当主である井伊直盛が戦死し、井伊直親が当主となります。

 

井伊直親の死

今度は三河の松平元康との内通を疑われ、西暦1562年にその弁明のため今川氏真のもとに馳せる道中で井伊直親は暗殺されます。

当主不在となった井伊氏は衰退していくのでした。

 

西暦1563年には先々代の当主であった井伊直平が城攻めの際に戦死。

翌1564年にも血族である新野親矩が城攻めで討ち死にし、井伊氏滅亡の危機に瀕します。

 

井伊直虎の還俗

西暦1565年、満を持して井伊直虎は還俗し、正式に直虎と名乗るようになります。

そして女ながらに当主として井伊氏を盛り立てていくのです。

 

西暦1568年に今川氏に拠点となる井伊城を奪われますが、徳川家康の力も借りて奪還に成功します。

ここから井伊直虎は徳川氏に傾倒していくことになるのです。

 

武田氏の侵攻

井伊城を奪還したのもつかの間、西暦1572年に甲斐の武田信玄が侵攻してきます。

井伊城に押し寄せたのは武田信玄に仕える名将、「赤備え」の山県昌景でした。

 

井伊城はあえなく落城し、井伊直虎は徳川家康の拠点である浜松城に落ち延びます。

武田氏は猛攻によって徳川氏を圧倒していきますが、武田信玄が病死し、甲斐に撤退していきます。

西暦1573年、井伊直虎は再び井伊城の奪還に成功しました。

 

養子、井伊虎松の出仕

井伊直虎は許嫁であった井伊直親の息子、井伊虎松を養子に迎え、さらに西暦1575年には徳川家康のもとに出仕させています。

井伊虎松15歳のときのことです。

井伊虎松は井伊万千代と名乗り、井伊谷領有を正式に認められます。

 

徳川家康の小姓を務めた井伊万千代は、西暦1582年に元服し、井伊直政と名乗りました。

井伊直政は戦場で数々の武功をあげ、さらに外交交渉などでも活躍し、徳川氏の重臣となっていきます。

そして滅亡した武田氏の家臣を吸収し、山県昌景の「赤備え」を復活させるのでした。

 

井伊直虎の死

井伊直虎が死んだのは西暦1582年のことになります。

この年、日本中を騒がす本能寺の変があり、堺にいた徳川家康は危機に陥ります。

 

徳川家康は少ない家臣を連れて伊賀越えを敢行するのですが、このときに活躍したのが井伊直政です。

必死の思いで三河に戻ることのできた徳川家康は井伊直政に孔雀の陣羽織を恩賞として与えたといいます。

井伊直虎はそんな息子の雄姿を確認してから永眠したのです。

 

やがて「赤備え」の井伊直政は徳川四天王に数えられるまでの活躍をしていくのでした。

生涯、井伊直親との婚約の誓いを守り独身を貫いた井伊直虎。

そしてその愛を受けて育った井伊直政によって井伊氏はどん底から這い上がり、最強の軍団として名を高めていくのです。