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情報を制するものが全てを制す!千利休から学ぶ情報の重要性

今の時代、いろいろな銘柄のお茶をペットボトルで購入し、すぐに飲むことができます。
特に不思議な話でもありませんね。
それだけお茶がメジャーな飲み物だからです。

しかし、戦国時代では茶はとても貴重なものとして上流階級(貴族や大名)の一部が楽しめた娯楽でした。茶器の中には一国の城に匹敵する価値のものもあったそうです。

そんな茶の世界の中心にいて「わび茶」を完成した人物といえば「千利休」です。

彼は戦場に出るような武将ではありませんでしたが、最期は時の権力者、豊臣秀吉から切腹を仰せつかって果てています。

今回はその千利休の切腹の謎に触れていきたいと思います。

■権力者に見いだされる

織田信長に見いだされた利休は、本能寺の変の後には、その後継者たる秀吉の相談役として信頼され、三千石を与えられています。

秀吉はその得意の「人たらし」でどんどんと勢力を拡大し、1585年には関白に就任、1587年には九州の島津を平定。
北野天満宮の梅苑で大茶会を開いて、世間の度肝を抜きました。

このときの主管はもちろん利休です。

常に秀吉は利休を傍に置きました。
そして1590年に小田原城の北条を成敗し、信長でもなし得なかった天下統一を果たすのです。

利休が切腹を言い渡されたのはその翌年1591年のことになります。

なぜ利休は切腹を言い渡されたのでしょうか。

 

■草庵の茶室

茶道というものがこの戦国時代にあって、どのような価値と意味をもっていたのかを考える必要があります。

利休は茶室を書院造りの建物から切り離して草庵というものを創り出しました。大名や各地の有力武将が密談する場所としても活用されていきます。

もちろん、インターネットなど存在しない時代です。
TVもラジオも新聞すらないのです。

マイクロソフトのビルゲイツ氏は、ライバルに勝つか負けるかは、いかに情報を収集、管理、活用するかで決まると話をしています。

その情報を交換し合う大切な場が茶室だったのです。

利休には利休七哲という、出生や身分を超えた弟子たちがいました。
筆頭は秀吉が最も恐れたという蒲生氏郷です。

他にも明智光秀の娘婿の細川忠興などといった有力者たちでした。
彼らは利休をリスペクトしていたのです。

また、加賀百万石を有する前田利家や織田信長の弟の有楽斎などそのネットワークは全国に通じていました。

その中心に利休はいたのです。

 

■豊臣家の存亡

「人たらし」で知られた秀吉が、天下を制してから人が変わったように残忍になっていきます。
ここから秀吉の人生の歯車が大きく狂っていくのです。

利休を切腹させた直後に嫡男の鶴松を病気で失います。
太閤となり、今度はアジア征服のために朝鮮出兵を行います。

また、嫡男の豊臣秀頼が誕生したことで甥の関白、豊臣秀次を自害に追い込むのです。

天下を統一するためにあれだけ人とのつながりを大切にした秀吉が、今度はその天下を守ることになると、威勢を万民に示し、逆らう者は滅ぼすという発想に変わっていきます。

豊臣家の天下を守るために秀吉は冷酷になったのです。

おそらく利休はその傍にあって、秀吉を諫めたでしょう。
そして怒りをかったのだと思います。

しかしそれ以上に利休の存在が秀吉の脅威だったのは間違いありません。
自らもその情報力を用いて天下を制したのです。

もし自分の亡き後、利休と徳川家康が手を結べば豊臣家の天下は簡単に覆されます。

秀吉が恐れたのはその「情報収集力」だったのではないでしょうか。

 

■最後に

千利休は、抗うこともなく、この切腹の下知を真っ向から受けました。

武士でもない利休は何の意地を貫いたのでしょうか。

切腹の理由は諸説いろいろありますが、受け入れた利休には、私には天下人となった秀吉への強い諫言の意味があったと思えて仕方がありません。

天下をまとめるには、武力でも策謀でもなく、また情報力でもなく、もっと大切な志のようなものが必要だと己の死をもって諫言し、またそれを弟子たちに示したのではないでしょうか。

そして狂った統治をする秀吉を諫める者はいなくなり、人心は徳川家康に移っていくのです。

完全たる情報の前では強力な権力ですら虚しいだけ。
昔も今も変わることはありませんね。