I live freely

「あさが来た」で大ブレークのイケメン俳優「ディーン・フジオカ」演じる「五代友厚」とはどの様な人物だったか

NHKの朝ドラ「あさが来た」で話題となりブレーク中の、五代友厚を演じるディーン・フジオカさん。

イケメン俳優として大ブレーク真っ只中ですね。

 

「ディーン・フジオカ」という名前から、外国又はハーフの人だと思うかもしれませんが、実はこの名前は「芸名」であって福島県出身の日本人です。

 

ディーン・フジオカさんは、深田恭子さんと出演した「ダメな私に恋してください」でも視聴者のハートを射止め大ブレークしております。

「あさが来た」では、過去の偉人である五代友厚を演じました。

五代友厚は、行動力があり良く学び、とても知的な人物だったといいます。

 

一方、「ダメな私に恋してください」ではドSなキャラクターを演じ、そのギャップに萌える方も多数いると話題になったほどです。

 

特に、「あさが来た」は朝ドラの視聴率が今世紀最大をマークしたほどの大作となりました。

このブレークのきっかけは、やはりイケメン俳優のディーン・フジオカさんの存在もかなり大きかったはずです。

 

そこで、今回は「あさが来た」でディーン・フジオカさんが演じた偉人「五代友厚」とはどのような人物であったかを詳しく説明していきます。

五代友厚から学ぶ思想と行動力

明治維新にかけての日本の夜明け、日本の近代化にとって欠かすことのできない人物、それが薩摩藩士であり、実業家として凄まじい活躍をした五代友厚です。

 

五代友厚が設立した組織は無数にあります。

五代友厚が発展に尽力した機関も無数です。

 

何より日本の存在感を世界に示した人物として有名です。

今回はそんな五代友厚についてお伝えしていきます。

 

 

世界を強く意識する少年時代

世界を股にかけて活躍することになる五代友厚は父親の影響を強く受けています。

父親は薩摩藩記録所奉行で、五代友厚は14歳の頃に、ポルトガルから入手したという世界地図の複写に携わっています。

 

世界への興味を高めるきっかけになったことは間違いありません。

尊王攘夷が叫ばれる幕末において、五代友厚は開国論者としての思想を持ち始めます。

 

 

若くして行動力に優れる

五代友厚の優れた点のひとつにその行動力があります。

地図や書籍から学ぶだけでなく、実際に触れることで学ぼうとする意識がとても高いことが特徴的です。

 

1855年には長崎海軍伝習所に派遣され、オランダ士官から航海術を学びます。

1862年には実際に上海に向かい、薩摩藩のための汽船購入の契約を交わすのです。

このとき五代友厚はなんとしても海を渡ろうと幕府艦である千歳丸に水夫として乗船するのです。

 

1863年の薩英戦争後は、一時捕虜となりますが、脱出し長崎に潜伏します。

そのときにトーマスグラバーと知り合い、今後の薩摩藩の経済・軍事面強化の上申書を力強く書き上げます。

このことは誰もが感嘆したといいます。

 

そして32歳にして藩命で欧州を視察。

近代事情に触れながら、紡績機械や武器の買い付けを行い、さらに遺英使団の一員の若者に影響を与えるのです。

 

日本の将来のために世界に追いつこうとする懸命な努力、実行力と合せて、断固とした強い姿勢が周囲を巻き込んでいくことになります。

 

 

大物たちとの交流

五代友厚の思想や行動力に感銘を受けて親交を結んだ人物が多数いますが、そこに名を連ねる者たちは大物ばかりです。

長崎では勝海舟、上海では高杉晋作、土佐藩の坂本龍馬とも交流があったそうです。

 

もちろん薩摩の西郷隆盛とも親交は深かったですし、欧州の視察には森有礼らの若者を教育しています。

森はその後、初代文部大臣になります。

そしてなんといってもその親交の凄さを物語っているのが1875年の大阪会議です。

 

混迷する明治政府の今後を決める大切な会議を、五代友厚は伊藤博文や井上馨らと取り仕切るのです。

参加するのは当時の日本のトップである大久保利通、下野した木戸孝允、自由民権運動の板垣退助という超一流のメンバーです。

 

会議の下準備に大久保は五代友厚邸に泊まり込んだそうですし、木戸孝允も五代友厚邸を何度も訪ねたそうです。

それだけの力を五代友厚は持っていたということになります。

 

それは信頼という力であり、日本の将来のために邁進する五代友厚の魅力でもあったのでしょう。

 

 

日本のトップ層として国力向上に貢献

得意の英語力を活かして英和辞典の刊行をします。

今でこそグローバル化に英語のコミュニケ―ション力は必要だと盛んに叫ばれていますが、明治当時から五代友厚は日本の近代化に英語力は欠かせないと感じていました。

留学を奨励したのもそのひとつです。

 

また、経済面の立て直しのために金銀分析所を設立したり、日本通貨の改善のために造幣寮を設立、同時に各地の鉱山を再興していきます。

五代友厚が発展に貢献したのは、他にも紡績、製塩、製藍など多数あります。

 

 

最後に

五代友厚は厳格に諸外国に対します。

外交官として日本人の名誉を守る交渉をし、外国事務掛として悪辣な商売をしようとする外国の商人たちと真っ向からぶつかり日本の経済を守るのです。

 

日本を成長させ、日本の存在感をアピールし続けた五代友厚。

49歳の若さで他界したとは到底思えぬ功績の数々に驚きを隠せません。

 

彼の行動力なくして今日の日本は築けなかったかもしれませんね。